春日さんに「すがられた」占い師の一人が、私なのである。
実際にお会いした春日さんは、こんなにぐたぐたといろいろと悩みの多い人だったかなあ? ちょっと分からなかった。それじゃあ、だめじゃない!
医者、弁護士なみの倫理規定でクライアントのプライバシーを守るのが、占い師も基本だ。じゃないとお客さんに信用されない。占い師のほうから、春日さんが相談に来たなどと発表することはない。
けれども、クライアント自らが、発表している場合は別だ。本人が占い体験記を発表しているのだから、その占い師は私だと名乗っても問題はないだろう。本書の60頁あたりに登場する、「強いて言うなら岩松了に近いけれども彼ほどのアクの強さはない」占い師が、私なのである。
しかし、「精神科医」と名乗られたときは、さすがにちょっと引いた。
「精神科医」と「占い師」。どこか似ているようでもあるが、「タコ」と「イカ」くらいに違う生物だと、本書でも、春日さんが書いている。
著者の春日武彦さんが、著名な精神科医であることは、ファンではない私でも、何気に知っていた。何冊もの知的で洒脱、ときにシニカルな著書で知られる有名人だ。けれども、「占い」というテーマは、春日さんのイメージからすると、かなり意外ではないだろうか? もし、取り上げるとしても、批判の対象として、ぼろくそにやりこめてしまう、そんな感じがするのだが。まして、「占いにすがる」なんて到底あり得そうもない。長年の春日ファンの愛読者なら、「春日さん、どうしたんだろう?」「編集者に騙されて、へんな企画をやらされているのではないか?」と、疑いたくなるのではないだろうか?
ところが、本書の冒頭は「不安感や不全感や迷い――」という書き出しから始まる。まさに暗いのだ。そして、自虐と屈折にみちた心の葛藤が、ああだの、こうだのと語られいく。精神科医なんだから、自分で薬を処方したらどうかと思うのだが、精神科医だからこそ、薬は効かないと暗にほのめかしている。いいんですかね、そんなことを書いたりしてと、こちらも心配になってしまう。
同業者には相談したくないとのプライドが働くようで、あげくに占い師にすがることを決意。実際に行った体験が語られていく。最初の圧巻は池袋の霊能系のおばさん占い師との掛け合いで、かなり笑える展開になっている。さすがにうまい書き手である。また、占いについての哲学的考察も展開される。
しかし、さまざまな心の葛藤が押し寄せ、そこから連鎖的に、昔読んだ小説のことやら、子供時代の思い出、母親との葛藤、両親が残したマンションの改装、本業の精神医療など、さまざまな話が連鎖し、挿入され、知的スノッブ丸出しの展開になっていく。その辺りをおもしろいと思うかどうかが、この著者の愛読者になるのかどうかの分かれ目といえよ。一見、本題から外れたように思える話も、実は計算された展開になっていて、それなりに納得すると、しだいその語りの魅力に巻き込まれいくという仕掛けになっている。
その辺りに気が付かないと、なんでこんな横道にそれるのか、ホントにこの人、悩んでるのかと思えてきたりもするので、まあ、めんどくさい。
最終章の終わりのほうで、占いについて、次のような著者なりの結論を導き出している。
「九割はパラノイアめいた冗談として聞いていただきたいのだが、ひょっとしたら、占ってもらうことによって不確定性原理――ある現象を観察すると、その観察行為自体が現象に影響を及ぼしてしまい、完全に客観的な観察などあり得ない――と同じ事態が、占いの場にも生じるような気がするのである。もしかすると占いという営みそのものが運命に揺さぶりをかけ、運命に変化を生じさせる可能性があるのではないか、と」
さらに春日さんは続ける。
「わたしにとって、占いは必ず当たる(!)のである。もしも占い師の語る未来が間違っていたとしたらそれは占う行為が運命に作用して変化をもたらした結果であり、だから本当は当たっていたのである。託宣が『当たって』いたとしたら、それは占いという振る舞いが運命に及ぼす影響力が微弱に過ぎなかっただけであろう。と、そのように解釈するから、いずれにしても占いは当たっているのである。
しかも占い師に頼りたくなるときは常に運勢が低迷しているときである。占う・占ってもらうこと自体が運勢に作用し、『厄払い』の効果をもたらすに違いない。占ってもらう行動にはちゃんと積極的な効能があるのだ。」
この引用は、占い師の私が書いているのではない。当前だが、精神科医の春日さんが、占いにすがった経緯を語ったうえで、最終的な結論として語っている部分なのである。
なんだか、占い師よりも占いの本質と、その効能をうまく語ってくれているような気がする。春日ファンはもとより、占いに行こうかどうかと、迷い悩んでいる人にも、また、占い師自身にも、読んでもらいたい一書といえるだろう。